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ホットクラブ・オブ・ジャパン名古屋支部の創立
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名古屋大学当時のジャズのファンクラブについてお聞かせください。
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ホットクラブ・オブ・ジャパン名古屋支部を創立しました。本部はフランスです。東京は日本支部で、はじめ「名古屋ホットクラブ」と名乗ったら、ホットクラブという名前はフランスが本場で、勝手に名前を使うのは許されないので、名古屋支部ということにしてください、とのことでした。
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何人くらいのメンバーで、どんな活動をしていたんですか。
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始めたきっかけは、伏見通りの角に小さな何でも売っている店があって、今で言う「コンビニ」ですね、百貨店と書いてあった。中にレコード屋があって、そこに20才くらいの、ジャズを本当によく知ってる店員さんがいたんです。英語が不自由なく話せる、不思議な青年でした。彼の所に黒人や白人の兵隊がいっぱい来た。ここでジャズを聴きながら、リズムに乗って楽しそうに踊っていました。ぼくは、その若い店員と友達になって、二人でジャズの愛好クラブを作ろうということで、レコードコンサートを始めました。大学を卒業する前まで毎月やって、40回近くになりましましたね。
でも、学生ですからレコードなんか買えないわけです。最初はレコード会社からSPを借りたり、自分の持っているのでやってましたが、会員が、何百人もに増えてしまった。当時、名古屋の白壁町に渡辺毛織という会社の社長さんのお宅があったんですが、その方がジャズレコードのコレクターだということをうわさで聞きました。大学の1,2年の時です。例の店員と二人で行って、頭を下げて「レコードを貸して下さい。」と言ったんです。そうしたら「もうちゃんとうわさを聞いてますから、そろそろいらっしゃるころだろうと思っていました。」と言って、本当に気持ちよく貸して下さいました。
当時のブルーノート、プレスティッジ、リバーサイドといったレコードが全部番号順にあるんですよ。輸入盤ばっかりでした。まだ日本からLPは出てませんので、社長さんに「どこで買ってらっしゃるんですか。」と尋ねたら、「東京ですよ。」と言われました。「『リズム社』という神田にあるレコード屋を紹介しますから、欲しいと思われたら、そこへ買いに行かれたらどうですか。学生さんですから支払いが大変でしょう。出世払いということでレコード屋のおやじさんに言っておきます。」そのレコード屋のご主人も英語がうまかったですが、葉書で英文の手紙をくれるんです。レコードのリストを書いて。欲しいものばかりで、みんな買っちゃった。父が、ときどき変なボール箱が、どさっと来るから「何だろう。」と言ってました。母には「親父にないしょにしといて。」と頼みました。開業してから3年位かけて、当時の金で15万円位支払いました。医者の給料が2万円ほどの時代です。
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すごいコレクションですね。
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そうやって買ったから増えたんです。勝手なお話ですが、あるとき払いの催促なし、というやつですよ。今どきあんなレコード屋さんは無いでしょうね。
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その中で特に印象的なレコードは。
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サボイとかプレイステイジなどのモダンジャズの10インチ盤。それにはいまでも愛着がありますね。チャーリー・パーカーやマイルス・デイビス、セロニアス・モンクなどです。
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内田病院につくられたドクターズ・スタジオ
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医学部を卒業されてからはどうされましたか。
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一宮の市民病院に2年、大学の研究室に入って3年位。それから清水の社会保険病院で2年という約束だったが、1年で岡崎に帰り開業しました。父と兄の婦人科のとなりで外科をはじめました。
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病院の中にスタジオを作られたのはいつごろですか。
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開業して3年程たってからですね。横浜のジャズ喫茶「ちぐさ」の吉田衛さんという人が、無名ながら意欲的な若いミュージシャンをとてもかわいがっていました。アメリカのジャズのコピーではなく、オリジナリティのある前衛的な音楽をやっていたんですが、進歩的過ぎて、横浜ですら同じ会場を二度と使わせてくれなくなったんです。彼らこそ日野皓正、菊地雅章、山下洋輔それに富樫雅彦といった、後の日本のジャズ界をしょって立った人たちです。吉田さんが「名古屋でなんとかならんでしょうか。」と言ってくれたんです。「親しい友人で『コンボ』というレストラン兼ジャズクラブのオーナーがいますから、お話してみましょう。」友人の久野史郎君の返事は「夜中の12時からなら朝までいいですよ。お話のグループのリーダー格のギタリスト高柳昌行君は古い仲間ですから遠慮なくどうぞ。」という、うれしくもありがたいものでした。この「コンボ」での深夜の発表会が縁となって出演した東京の若いミュージシャン達が、岡崎のわが家を訪ねて寝泊りするようになりました。真面目な若者達が一日中、居間で練習しているのを見て、彼らが思う存分音の出せるスタジオを作ろうと決心したわけです。
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お話を少し戻して「コンボ」の発表会の入りはどうでしたか。
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入り切れないほど。100人以上で、フロアに座って頂いた程でした。当時はジャズの生演奏が聴ける機会が少なかったせいもありますが、ジャズに深い関心を抱く人も沢山おられたともいえますね。このレストラン「コンボ」は店を二つに仕切り、入口付近は格調高い本格的な料理を出して話題になった程でした。そしてその奥は、アメリカの映画に出てくるような長いバーカウンターが美しい正統的なジャズクラブで、生演奏が聴けました。後に、アメリカのジャズ専門誌の「ダウンビート」に「日本で最もすばらしいジャズスポット」と紹介されたために、来日した一流ジャズメンが名古屋公演を終えたあと必ず立ち寄るようになり、日本のミュージシャンとアフターアワーズのジャムセッションを心ゆくまで楽しんでいました。おかげさまで、私たちも思いがけないすばらしい体験をさせてもらいました。
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外国のジャズメンとの交流もあると聞いていますが。
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岡崎のスタジオに再三訪れたのはオスカー・ピーターソンです。その後も「名古屋を通過する度にドクターを思い出す」と言って喜ばせてくれたものです。一番印象に残るのは、モダンジャズの創始者の一人で偉大なピアニストそして作曲家のセロニアス・モンクを迎えたことです。たまたま、その夜のスタジオには、日野皓正を含む白木秀雄クインテットが遊びに来ていて、名古屋のステージを終えたT.モンク・カルテットと合同セッションをしてくれたのです。その夜の「生涯忘れられないすばらしい夜をありがとう」というモンクの言葉は忘れられません。親しかったといえる人は、これ又ジャズ史上重要なピアニストのビル・エバンスでしょうか。彼とはスイスのモントルー、ロンドン、そしてニューヨークでも会いましたが、名古屋で一緒にステーキを食べたのは嬉しい思い出ですね。
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