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謝辞:このインタビューは、愛知県立岡崎高等学校が発行する校誌「学友」第46号(2003年3月1日号)に掲載された「学友インタビュー」を引用させていただきました。ご協力いただきました関係者の方々に心よりお礼を申し上げます。

「ドクター・ジャズ」のニックネームで国内国外で知られている内田先生は、岡崎高校の前身、旧制愛知県岡崎中学校の第49回卒業生です。名古屋大学医学部に在籍中、名古屋にジャズクラブを創立し、ジャズを広く紹介しただけでなく、後に日本だけでなく海外でも活躍するプレーヤーに育った、そのころまだ無名の若いジャズメンに演奏する場を提供したりして、日本のジャズ発展に貢献してきました。平成5年に岡崎の内田病院を閉鎖し引退した折、それまでに集めた膨大な数のレコードや、貴重なライブテープを岡崎市に寄贈されました。このたび、先生からお話しをうかがう機会を得て、ジャズに対する熱い思いを語っていただきました。(質問者Q)(内田修氏:U


岡中から旧制八高(現名古屋大学)医学部へ

岡中時代の思い出がありましたらお話ください。

今村(現新安城)にあった愛知航空という飛行機のエンジンを作っているところで戦争が終わるまで学徒動員で働きに行きました。だから戦争中はたいした思い出がないんです。ただぼくは運動が好きだったんで、小学校のときから剣道をやっていました。一番思い出に残っているのは、入学してすぐ剣道部に入ったときです。こっちは柔道の黒帯にあたる黒胴というやつです。素人相手に16人とやったが、いつまでたっても負けないから「やめて下さい」と言われました。小学校5年生から剣道の試合には出ていました。中学でもすぐ剣道部に入りましたが、戦争が終わってからは卓球部を作りました。野球部にも入った。

体育系だったんですね。

勉強はあまりしなかった。試験のとき、白紙答案を出したことがある。だけど、当時は粋な先生が何人もおられて全秀にしてくれました。野球部も本格的でした。ぼくのすぐ下の学年が甲子園に行っている。近藤貞雄さん(元中日監督)の弟が、ぼくより一級下にいた。中日に行きましたよ。

旧制八高(現名古屋大学)に進まれたときには医学部に進むつもりでいたのですか。

戦争中は工学部へ行くつもりだった。ところが家は医者だったのです。親父が婦人科だったが、ぼくは外科医になろうと思った。レマルクの書いた「凱旋門」という本を読んで、感化されて、かっこいいという、ただそれだけの理由からです。それで医学部に行きました。

先生は長男ですか。

ちがいます。長男の兄は、もうなくなりましたけれどね。産婦人科医でした。


ジャズとの出会い─なんといってもチャーリー・パーカー

ジャズとの出会いは、いつ頃でしたか。

医学部に入る前、受験勉強してるとき。中学のとき、戦後すぐです。

戦争中はジャズは聴けなかったでしょう。

それどころじゃありません。戦時中は軍歌ばかりでしたね。戦後、進駐軍放送を受験勉強やりながら聴いていました。そこから流れてくる音楽を、こんな楽しい音楽はないと思い、真剣に聴きました。FEN(Far East Network)というラジオ放送です。NHKでも「スイングクラブ」という番組を土曜日の7時から30分やっていました。これは非常にいい番組でした。だからジャズ入門はラジオから。

そのころの印象的な演奏家は誰でしたか。

何といってもチャーリー・パーカーです。「スイングクラブ」の解説者は、デキシーランドジャズの専門家で、河野隆次という方でした。その人が偉かったのは、古いジャズだけでなく、新しいジャズもかけてくれたことです。チャーリー・パーカーはもちろん。中学の終わりころだから、戦後すぐ、1947年(昭和22)ごろです。当時のレコードはもちろんSP盤です。ぼくが初めて買ったレコードは、「ジャズの歴史」というコロンビア盤SP12枚組で、今は岡崎の美術博物館にあります。非常にいい編集がしてあってすばらしい。古いジャズから新しい最先端のジャズまで、もれなく聴けた。伝馬通りにあった「フカヤレコード」店で買いました。6,000円。普通の人の初任給がそのくらい。おふくろが買ってくれたんで、中学生が買える訳がありません。


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