ヴァーヴ

 1956年にコンサート・プロモーターでレコード・プロデューサーのノーマン・グランツによって創設。グランツは1944年にロサンゼルスで「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック」(JATP)と銘打つジャズ・コンサートを主宰して以来、1950年代中期までJATPによる全米ツアーで成功し、コンサート・プロモーターとして名を馳せていました。グランツは1918年8月6日、ロサンゼルスの生まれで、1944年7月に第1回JATP公演を計画した時点では弱冠25歳でしたが、このときすでに公演を“実況録音”するという慧眼をもっていました。このときのライブは1946年になってリリースされ、これらはジャズ・レコード史上に登場した最初のライブ盤となりました。

 グランツは以後もJATPコンサートのライブを録音し続け、これがVerveレコードのそもそもの出発点です。また、グランツは1946年に「Clef」というレーベルを興してJATPコンサートのライブをシリーズで発売、同時に新作のレコーディングにも着手しました。1953年には自己の名を冠した「Norgran」を立ちあげ、ジャズ界の巨人と目された多くのミュージシャンたちを積極的に起用しました。ノーマン・グランツが1956年になって新たにVerveレコードを興したのはこの年、彼がマネージしてきたボーカル界の女王エラ・フィッツジェラルドと新たに専属吹込み契約を交すことができたためで、新レーベルの4000番台シリーズ(約70点)はエラが中心になりました。

 Verveは前身のClefやNorgranのカタログを傘下に統合して、トラディショナル・ジャズが中心の1000番台(約30点)、オスカー・ピーターソンのソングブックを中心にしたポピュラー系の2000番台(約160点)、ブルース/フォーク系の3000番台(8点)、ステレオ・バージョンで編成された6000番台(約170点)、それに最重要部門を形成するジャズの8000番台(約850点)といったシリーズを組んで短期間のうちにジャズ・レコード界のメジャーにのし上がりました。

 Verveレコードは1960年12月にはMGMに売却され、ノーマン・グランツの手を離れました。この後MGM/Verveは1972年に現在のポリグラム傘下に吸収され、これを機に新作の制作は中断しましたが、1980年代末期から復活し、今日も精力的な制作活動が続いています。1994年にはカーネギー・ホールでVerve創立50周年を記念する盛大なコンサートが開かれました。

 創設者のノーマン・グランツ(在スイス)はピカソの蒐集家として有名。若いころはMGM映画のスタジオでフィルム編集スタッフとして働きました。グランツが1944年にカメラマンのジョン・ミリと組んで制作した短編映画「Jammin’ the Blues」はジャズ映画史上不滅の傑作と評価されています。
グランツの制作方針はジャズを芸術として正当に評価し、ミュージシャンに対して完全な創造の自由を与えることでした。コールマン・ホーキンスによる1曲「ピカソ」(3分15秒)の完成にのべ8時間を費やしたというエピソードは有名です。1949年に制作した豪華アルバム「ザ・ジャズ・シーン」の巻頭でグランツは「今日のジャズ・シーンを真に代表するアーティスト起用し、音楽的に彼らの真価をレコード化するため、一切の制約を課さず、いかなる曲(自作、他作を問わず)、いかなる編曲、いかなる楽器編成も使える自由を与えた。さらに録音に必要な時間に制限もつけなかった…」と制作ポリシーを明記しています。

 グランツの傘下でエラやピーターソンやガレスピーといったジャズ界の最高峰がベストの作品を残したのは、プロデューサーのアーティストに対する信頼と愛情、そして何よりもジャズへの深い愛着があったからこそといえます。

 Verveレーベルのもう一人の功労者はこのレーベルのカバーにさまざまな筆致の線画や作品を提供したイラストレーターのデビッド・ストーン・マーティン(DSM)です。DSMは1913年、シカゴの生れで、シカゴ美術学校を出たあと1943年には「ライフ」誌の画家兼従軍記者として活躍。その後はイラストレーターとして「タイム」誌の表紙を描き、ニューヨークのアート・ディレクターズ・クラブから1946年から49年まで連続して年間最優秀賞を贈られました。

 DSMがグランツの要請を受けてレコードのカバーを担当するようになったのはClefレーベルが発足したときからで、DSMはグランツの仕事を優先させるために1951年から55年にかけてはニューヨークからグランツの本拠地ロサンゼルスに移住したほどでした。1950年代を通じてDSMが精魂込めて描いたアルバム・カバーのイラストはVerveレーベル全体に格調高い芸術作品としての雰囲気をもたらしたのです。