リバーサイド

 1952年にビル・グラウアーとオリン・キープニュースによってニューヨークで創設されたジャズ・レーベル。二人はコロンビア大学時代の同級で、ともに熱烈なジャズ・ファンでした。卒業後はグラウアーがレコード・コレクター向け月刊誌『Record Changer』(1942年創刊)の発行を引継ぐようになり、オリンも1948年からは同誌の編集者兼主筆として参加。やがて2人は古典ジャズの復刻専門レーベルとして「Riverside」を発足させました。 

 レーベル名はRecord Changer誌の電話番号の前につくゾーン表示(当時は“リバーサイドの何番”などとなっていた)からきています。二人は当初、西49丁目の同じ住所で雑誌発行とクラシック・ジャズの復刻を両立させていましたが、1953年からはランディ・ウエストンを皮切りにモダン・ジャズの新作録音にも着手、雑誌が廃刊となった1955年にジャズ界の大物セロニアス・モンクと契約したのを機に本格的なレコード制作活動に移行しました。新作のプロデュースをもっぱら担当したのはオリン・キープニュース(1923年ニューヨーク生まれ)で、以後約10年間を通じて、モンクをはじめビル・エバンス、キャノンボール・アダレイ、ジョニー・グリフィン、ウエス・モンゴメリーらモダン・ジャズの巨人たちの全盛期の作品を次々に発表し続けました。

 また、ソニー・ロリンズ社会的問題作『自由組曲』で人種差別問題に一石も投じ、ボビー・ティモンズやアダレイ兄弟らの一連のヒット・アルバムで60年代の初頭にはジャズ界に“ソウル・ジャズ”の旋風を巻き起こすなど、当時は「ブルーノート」や「プレスティッジ」といった名門レーベルと大いに競いあいました。当初からレーベルの財政面を取仕切っていたのはビル・グラウアーでしたが、1963年に彼が亡くなると、まもなくリバーサイドは制作活動に終止符を打つことを余儀なくされました。なおリバーサイドが残したおよそ300点に達するアルバムは現在、ファンタジー・レコードに吸収されており、今も折に触れて再発が繰り返されています。

 レコード・コレクターがはじめたレーベルだけに、リバーサイドのアルバムは演奏者や曲目の表記だけでなく、すべてに正確な録音年月日を明記するというディスコグラフィカルなデータの表記を徹底していました。プロデューサーのオリン・キープニュースは大学卒業後は一時期大手出版社の編集者として働いたことがあり、文才に長けていたこともあって、自ら制作したアルバムのライナー・ノーツを一手に手がけていたのも特長的です。モンクやビル・エバンスの初版プレスが1,000枚に満たないという状況で、そもそも原稿料節約のためにとられた苦肉の策でしたが、アルバム完成までの舞台裏を一番よく知っているプロデューサーが書いたライナー・ノーツは、部外者知ることのない作品誕生の背景や録音時の隠された情報、エピソードなどが加えられていて、リバーサイドの場合は解説面が演奏者と聴き手をつなぐ良きメッセージ・ボードとなりました。

 リバーサイドの作品はほとんどオリン・キープニュースが制作しましたが、彼のブレーンとして働いたミュージシャンたちのことも忘れることはできません。たとえばシカゴで活動していたジョニー・グリフィンをリバーサイドに推挙したのはセロニアス・モンクでしたし、キャノンボール・アダレイを推薦したのはクラーク・テリーだったのです。テリーはリバーサイドのビッグ・バンド・セッションではいつもミュージシャンの人選やスケジュールを調整する“コントラクター”になりました。

 キャノンボール・アダレイはリバーサイドの成功に貢献した最重要ミュージシャンの一人になりましたが、彼はまたタレント・スカウトもしていました。ウエス・モンゴメリーをインディアナポリスで聴いて、「絶対録音すべきだ!」とキープニュースに電話番号を渡したのもキャノンボールでしたし、ブルー・ミッチェルを推挙したのも彼でした。この実績が買われてキャノンボールはリバーサイドの例外的な外部プロデューサーに起用されたことがあります。ジェームス・クレイ&デビッド・ファトヘッド・ニューマンの名盤『The Sound of Wide Open Spaces』はリバーサイドにおける“A Cannonball Adderley Presentation”シリーズの記念されるべき第1弾になっています。