母の代から家族ぐるみで
先生とのおつき合いは古く、私の母の時代に遡りますので、40年以上の歴史がありますね。亡くなられた先生の奥様、子どもさんたちを含めて、家族ぐるみでおつきあいをさせて頂いてますね。
先生は野菜嫌いで、カッカ・カッカ!? 先生とはよく喧嘩しましたね。先生がまだ当直医の時によく食事を持っていったんですけどね、持ってくることが判っているのに、「お腹がすいた。」と怒るんです。先生は野菜が嫌いで食べないせいかしらないけど、カッカ・カッカしてるんですよ。
先生の奥様が亡くなって、母が最初に先生のお宅の食事のお世話をするようになり、その母がケガをしてからは私がお店から料理を運んだり、先生のお宅のお勝手で料理をしたりするようになりました。何だか知らないうちにやっていましたね。
それから、お勝手にまでレコードやらリールテープやらがあって、「絶対にさわらないように。」と言われてました。でも、テープなんかはホコリがかぶっちゃいかんでしょう。あんまり汚いから、時には掃除をして、そのまま元通りにしておきましたよ。
ドクターズスタジオには、ミュージシャンにお茶をおだしする時くらいしか入っていませんでした。みなさんお手伝いさんと思っていたのかもしれないですね。
たくさんのミュージシャンが来ました
丸長には、たくさんのミュージシャンが来てましたよ。渡辺貞夫さん(サックス)、亡くなった宮沢昭さん(サックス)、菊地雅章さん(ピアノ)、森剣治さん(サックス)・・・中でも渡辺さん、宮沢さん、菊地さんの3人は、しょっちゅう来てましたね。
貞夫さんが3ヶ月間、病院にみえていたときは、病院よりもうちのお店に来ていた時間のが長かったんじゃないですか。母は貞夫さんが毎日来てるから、どこかの作業員さんかと思っていたようでね、後で話をしてびっくりしてました。
宮沢さんはこころのやさしい人で、私の母が市民病院へ入院するときには泣いて付いて来てくれたんですよ。菊地さんは菜食主義で、お肉といったら、鳥しか食べなかったですよ。
みなさん、お店では普通でジャズの話はあまりしなかったですね。先生とミュージシャンの方は、とっても打ち解けていて家族の様でしたね。
先生が一番悲しかったのは・・・
先生が一番悲しがってたのは、ギターの高柳昌行さんが亡くなった時。夜、一人でお店に来てワンワン泣いていました。とても一人にするのはかわいそうでした。よっぽど悲しかったんじゃないのかしら。
先生、こちら(岡崎)にみえたら、よってくださいよ。もう怒りませんから・・・
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そば「丸長」の女将、吉川和江さん。当時を振り返っていただきました。
そば「丸長」
吉川和江(よしかわ かずえ)
通称:みやちゃん
渡辺貞夫をはじめ、多くジャズミュージシャンが内田病院滞在中にひんぱんに訪れたおそばやさん。昭和6年創業。吉川さんは3代目の女将となる。「そば寿司」が有名。

↑左から2番目が女将さん、3番目渡辺貞夫氏、右:先代女将さん

名物「そば寿司」。わさび醤油にて頂きます。
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