2005年11月2日(水) 松坂屋銀座店「Dr. JAZZ内田修ジャズコレクション展」でのインタビュー
Q:インタビュアー(シビックセンター)
F:藤井 武
Q:内田先生とのお付き合いは?
F:銀巴里セッションの録音日が1963年6月26日なんですが、その時、ステージの前でテープレコーダー(ソニーのスリーセブン)をセットしていらっしゃるのが内田先生でした。 その頃、僕はちょうど大学を卒業したばかりで、まだサラリーマン1年生でしたが、その2年ぐらい前から、毎週金曜日の午後に銀巴里でやっていたセッションにほとんど毎回聴きに行っていました。
昼間のセッションはお客さんの数も少なかったんですが、何ヶ月かにいっぺんやる銀巴里閉店後の夜中のセッションは行くたびに満席だったことを記憶しています。当日はお客さんが通路にまで座り込んでいて非常に盛況でした。
その時、初めてお目にかかりました。こちらはまだ駈け出しでしたからご挨拶もできませんでした。
親しくお付き合いするようになったのは、1971年、金井英人さんのアルバム「Q」を制作した時に、内田先生に新世紀音楽研究所や銀巴里セッションについて紹介してもらおうと、ライナーノーツの原稿を依頼したのが最初です。
それ以来、TBMで新人の作品を出すと、そのたびに先生が主催していたヤマハ・ジャズ・クラブでいろんなかたちで取り上げてくださって、打ち上げまで同席させていただき、お酒を酌み交わす仲になりました。
Q:先生のライナーノーツはどんな印象を受けられましたか?
F:とにかく、ひたすらジャズが好きなことが伝わってくる文章ですね。そこのところは僕もまったく同じですから、ピタッとフィーリングが合うといいますか、だからほとんど原稿そのものにダメを出すことはなかったです。
Q:「スリー・ブラインド・マイス」が、日本人のアーティストに焦点を当て続けてきた理由を教えてください。
F:自分自身が日本人であることが、まず第一。日本文化は固有のもので、世界の中で唯一独特で細やかな情緒をもっていますから、日本のジャズは海外のものとは違います。極論すれば、外国のジャズは聴かなくてもいいのです。日本人の僕たちが、日本のジャズをもっと盛り上げなくちゃならない。
特にジャズみたいに変幻自在な音楽、様式も定かでないような音楽はいろんな可能性があって、そういう実験ともいえるようなものも大事にすることで、次の新しいジャズの変革ができる可能性が非常に高くなる。ジャズはそういう音楽様式ですから。
クラシック音楽だとか文学だとか絵画だとかっていうのは、仮に発表した時に売れなくても原本は残っているわけですよね。ところが、ジャズっていうのはその場限りですから、誰かが録音しないと空気中に流れて終わりなんですよ。
世界中で毎晩のようにいろんなアーティストが演奏しているけど、同時にそれを全部聴くことは不可能です。とすると、やっぱり記録という意味の「レコード」っていうのは他のどんな音楽よりもジャズにとってはなくてはならないものなんです。
他の音楽は、ほとんど全部スコア通りですから、多少のニュアンスは違っても同じように再現できる。ジャズは一発勝負だからそういうことができない。だからこそ大事にしていきたい。
Q:岡崎にはいらっしゃったことはありますか?
F:岡崎の先生のスタジオにも何度もおじゃましました。宮沢昭さんと大野三平さんがまだ入院している頃にちょうど尋ねたら、森剣治さんがみえて、一緒に居酒屋に飲みに行きました。三平さんは、まだお酒がだめなはずなのに、飲んでいましたけど(笑)
Q:最後に先生にメッセージをお願いします。
F:名古屋のラブリーとかに寄ると、先生をしょっちゅうお見かけするんです。東京でもそうでした。それに、先生は惚れ込んだミュージシャンだと、オッカケみたいに九州ツアーにまでついて行ったり、とにかくライヴを聴く。
やっぱり日本のジャズをもっと豊かにしていくためには、みんなが生を聴いて、アルバムを買って、いい演奏には応援して、ちょっとどうかなっていう演奏には厳しい批評をしないといけない。先生はこのことを文字通り実践されておられる方の一人だと思います。
だから先生には、どんなにお年を召しても現場に行っていただいて、ビールがコップに半分しか飲めなくなっても、ジャズを楽しんでいていただきたいと思います。
私自身もそうありたいと思っている一人ですから。
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