朝から大宴会の内田邸
はじめて内田先生にお会いしたのは、宮沢昭さんが連れて行って下さったヤマハ・ジャズ・クラブのコンサートのときでした。それがいつだったのか手許に資料がないので正確には思い出せませんが、まだ学生だったから、たしか1964年前後のはずです。
御自宅スタジオでリハーサルをし、岡崎市内のどこかに泊まり、翌朝ふたたび内田邸に集合したときの光景は今でもあざやかに覚えています。
ダイニングルームの大きなテーブルの上に、十数人分はありそうな握り寿司の大盤がふたつ置かれ、ビール瓶がならび、まるでこれから大宴会が始まろうかという雰囲気。先生は軽くグラスを空けると、「みんな好きにやっとって。わしゃこれからちょっと盲腸を切ってくるで」と病棟へ行ってしまわれる。くり返しますが、朝食です。
リハーサル後の晩餐ではすでにステーキやら何やら、当然酒精分も豊富な前夜祭をくりひろげているわけで、弱輩者の胃袋はパニック状態から回復していないというのに、あのパワーは何だ?と心底驚きました。
ドクタージャズ・アット・スズカ
先生は音楽以外にも多くの趣味をお持ちだったと思いますが、当時熱中しておられたのは、まだ完成して日が浅い鈴鹿サーキットでレーシングタイヤを装着したプリンス・スカイラインGTRを駆ることだ、とうかがいました。モータースポーツ好きのミュージシャンの筆頭はピアニストの三保敬太郎さん、それからコルゲン鈴木宏昌さん。おふたりが御存命だったら〈Dr. JAZZ at SUZUKA〉のエピソードをうかがえたことでしょう。
医師だからできたジャズの庇護 内田先生はジャズの庇護者、ということがまず頭にうかびますが、音楽に対する庇護ばかりではなく、本業の「医」での恩恵をこうむったミュージシャンを数えたら、誇張ではなくおそらく世界一ではないでしょうか。内田先生が他の職業、弁護士とか頭取とかで、病気のミュージシャンを治療せず、そのために彼等が短命だったりしたら今日の日本ジャズ界は壊滅していたに違いありません。
私は幸か不幸か、内田病院のお世話になったことがありません。同世代のミュージシャンでは異例なことです。そのことを思い出すたびに、「オレはジャズ界のハミ出しなのかなぁ」と多少淋しい気持がします。
「佐藤君はどこか悪い所はないのかね」と時々先生に聞かれます。「血圧が高いんですけど」「ほう、どのくらい」「上が××、下が△△あたりです」「何じゃ、そんなものは正常値のうちだ。さぁ、飲め飲め」「でもWHO分類だと立派な高血圧ですよ」「わしなど毎晩超えとる。気にせんでよし」…ドクターの保証付きなので、安心して飲める、というわけです。
岡崎が世界のジャズ研究の拠点に
2000年代に入ったあたりから、海外の大学で文化史としてのジャズ研究がさかんになってきたように思われます。それも、ジャズを世界的な視野でとらえる、という方向です。日本も当然その中に入っているわけで、私の所にも手紙やEメールでの問い合わせ、あるいはわざわざ日本にやってきてのインタビュー申し込みなどが年に一度か二度あります。
たとえば、ミシガン大学からWilliam Minor著『Jazz Journeys to Japan』という本が出たりしています。 今後、そのような動きが大きくなって行くのは間違いありません。だとすると、海外の研究者にとって「内田修ジャズコレクション」は日本のジャズを知るうえで看過できない存在となるはずです。
岡崎が世界のジャズ研究の重要な拠点になる。想像するだけで誇らしい気持になりませんか。 その日のために、HPおよびアーカイヴの英語版を是非とも完成させてくださるよう、関係の方々にお願いいたします。
内田先生、そうなると世界各地から講演依頼が殺到しますよ。「医者の不養生」にならないよう、いつまでもお元気で。
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2003年6月8日「ハママツ・ジャズウィーク」楽屋にて。
佐藤允彦(さとう まさひこ)
1941年東京生まれ。慶応義塾大学卒業後、1966年から1968年にかけて米国バークリー音楽院に留学、作・編曲を学ぶ。自らの音楽活動のほか、作・編曲家として、また音楽プロデューサーとして国内外で活躍し、国際的にも高い評価を得ているピアニスト。

「葵博 岡崎'87」リハーサル風景。

1993年1月11日コレクション寄贈当日、岡崎市役所にて。
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