渡辺貞夫(わたなべ さだお)
アルト・サックス奏者
世界を代表するジャズ・ミュージシャン。1933年、栃木県宇都宮生まれ。高校時代にクラリネットを始め、18歳で上京後、アルト・サックスに変更。1953年、秋吉敏子のコージー・カルテットに参加して一躍脚光を浴び、ジョージ川口のビッグ・フォー・プラス・ワンを始め数多くのバンドで経験を積みます。1962年、ボストンのバークリー音学院へ留学。帰国後は日本ジャズ界のリーダーとして活躍。1986年には芸術選奨文部大臣賞、1995年には紫綬褒章、都民文化栄誉章を受章。
市制90周年記念プレイベント
渡辺貞夫バンド2006ジャズコンサート
平成18年3月14日(火)
岡崎市シビックセンターコンサートホール“コロネット”楽屋にてインタビュー
W:渡辺貞夫
Q:インタビュアー(岡崎市シビックセンター)
Q:渡辺さんにとって、内田先生はどういう存在であり、どのように思っていらっしゃいますか。
W:僕と内田先生との交流というのは、30年、いや40年くらいになりますね。僕が24,25歳のころで、先生が28,29歳だったと言っていましたから。
たまたま僕が名古屋のジャズクラブで演奏しているときに先生がいらっしゃって、そこで彼がジャズファンということで親しくなって、それ以来、今日まで長いお付き合いをさせていただいています。
先生は、本当にジャズファンですね。日本のジャズシーンのなかで若いミュージシャンたちが名古屋に来るたびに面倒をみてくれて、名古屋のヤマハ・ジャズ・クラブを何十回も自費でやってくださったので、ジャズ・ミュージシャンたちは、本当にお世話になりました。
また、先生はお医者さんですから、ミュージシャンに事故があったり、病があると何やかやと先生のところに駆け込んでね。僕自身も1980年のときに肝臓を患って、1981年ですかね、この岡崎の街に来ました。3ケ月間、先生の病院に入院したんですが、先生の病院は今なくなってしまいましたけど、あの近所にあった蕎麦屋のおばあさんにはずいぶんお世話になったし、本屋さんにもよく行きましたね。ですから、岡崎にはそういう思い出があります。
それから、先生のところには当時、病院のなかに立派なスタジオがありまして、グランドピアノを置いて、ベースからドラムスから全部セットアップされて、レコーディングのシステムまでつくられていました。
だから、僕たちは名古屋に来るとそのまま岡崎の先生のスタジオにいって、ジャムセッションをやったり、演奏したりっていうのが思い出として残っています。奥様がご存命のころは、僕なんかは、本当に家族ぐるみでお付き合いをさせていただいていて、なつかしい思い出がたくさんあります。
Q:内田先生は、ジャズ・ミュージシャンたちにとって、とても大きな存在だと思いますが、とくに渡辺さんにとって、どんな存在ですか。
W:ええ、まあ、先生とのお付き合いということでいえば、ここに来る前も名古屋でコンサートがあったのですが、先生は来てくださいました。東京などにもよく出かけて、大切なコンサートはかならず今でも聴きに来てくださいます。でも僕のイベントだけじゃなくて、先生はジャズ・ミュージシャンたちそれぞれを自分が育てたというところがありますから、けっこう忙しく飛び回っているかと思います。毎年、何回となく、あれっというところでお会いしたりもします。
先生には、これからも健康に気をつけて長生きして欲しいですね。
Q:本日はありがとうございました。
(市長対談)
愛知万博で渡辺さんと共演した岡崎ジュニアコーラス「ジュリフィーユ」が3月14日コンサートホール「コロネット」でも共演しました。(写真:渡辺氏と市長 柴田紘一)
W:渡辺貞夫
S:岡崎市長 柴田紘一
W:こんにちは。
S:はじめまして。今日はありがとうございます。子どもたちが大変お世話になりました。渡辺さんのおかけで、子どもたちも大喜びです。愛知万博の会場でも本当にお世話になりました。
W:いやいや、岡崎の子どもたちには、みんな元気がよくて、明るくて本当に助かりました。
S:子供たちに感動を与えていただきまして、みんな感謝の気持ちでいっぱいです。
W:こちらこそ。また今日もみんなに会えますしね。
S:今日はみんな楽しみにしています。チケットもあっという間に完売で、みんな楽しみにしていました。どうぞよろしくお願いします。
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