秋吉敏子(あきよし としこ)
1929年、中国東北部(旧満州)の遼陽生まれ。1946年、家族とともに大分県別府市に移り、ジャズ・ピアニストとして活動を始める。1948年に上京し、1956年にアメリカのバークリー音楽院に留学。以後、アメリカを拠点として活躍し、世界を代表するジャズ・ピアニストとしてその名が知られている。
平成17年8月19日(金)、シビックセンターコンサートホール・コロネットにてインタビュー
Q:インタビュアー(岡崎市シビックセンター 中根)
A:秋吉敏子
Q:本日はお忙しいなか、インタビューをお引き受けくださり、ありがとうございます。
A:いえいえ。
Q:岡崎市は、内田修ジャズコレクションの活用とPR事業をおこなっています。今回は秋吉さんにいろいろな話をおうかがいして、ホームページでお伝えしたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。
まずお聞きしたいことは内田先生との出会いについてですが、最初に出会ったときはどんな印象を受けましたか。
A:最初にお目にかかったのは、私が覚えている限りでは1964年ですね。1964年に子供ができたことがわかり、母のもとがいいと思って、日本に帰ってきたんです。それで、名古屋のヤマハでおこなわれていたヤマハ・ジャズクラブで内田先生がアドバイザーをされていて、そのときにお目にかかりました。いちばん最初にお会いしたのはそのときです。そのあとご馳走になって。先生とのお付き合いはそれからですね。
あとから知ったことなんですが、内田先生は病院をやっていらっしゃって、日本のミュージシャンでちょっと体の弱い方たちをお世話していましたね。彼にお世話になっていないミュージシャンはいないだろうと思うくらい、内田先生はミュージシャンたちをケアしていました。そして、日本のミュージシャンが日本以外のところで演奏するときは、必ず一緒にいらっしゃった。
Q:海外ですよね。
A:ドイツにもいらっしゃるし、アメリカにもよくいらっしゃった。アメリカでやっと家賃を払っている頃は、夏になると出るところがあって、そこにもいらっしゃった。最近は法律で飛行機のなかでタバコが吸えなくなったので、14時間も吸えないのがつらいとおっしゃって、もう海外に出られることをおやめになった。ほんとに、非常にいろんな意味で支援なさっていました。みんな、海外で演奏した人たちのなかで、内田先生が応援に来ないなんてことはなかった。
Q:先生はフットワークが軽いというか、ほんとうにいろんなところに飛んで行ったんですね。今の先生の印象はジャズのほかでは、ビールとタバコです。それから、帽子。これはトレードマークみたいになっています。
A:そうですね。昔からかぶっていらっしゃった記憶があります。お酒はよくお飲みになっていました。私はお酒、いわゆるアルコール類を飲み出したのが、1963年ですから……。ごめんなさい、私、間違えました。最初にお会いしたのは1963年です。その頃、私はアルコールがぜんぜんダメで、4週間パリのブルーノートで仕事をもらったときに、なんとなくワインを飲み出して、それから飲むようになったんです。だから1963年に内田先生とお会いしたとき、一緒に飲んでいます。
Q:内田先生は、ビールか焼酎ですよね。
A:昔は、ウィスキーとかスコッチをお飲みになっていました。今は焼酎一点張りみたいですが。
Q:焼酎の方が、健康によさそうですね。
(秋吉さんの著書『孤軍』に掲載されている写真を見ながら)じつは写真をいろいろ見させていただいて……。
A:それはね、クラウンの岩崎さんという方が、完全なディスコグラフィということで、いろいろと間に入っていただきました。アメリカに行ったばっかりだから1956年ですね。その横の写真は、ワシントンDCでホテルのなかのジャズクラブに4週間出たときのものです。ボイス・オブ・アメリカのアナウンサーで今はもう亡くなりましたが、その人と私のお世話をしてくださったエージェントの人が迎えにきてくださって、そのときの写真ですね。
Q:すごいですね、みなさん。すごくかっこいい。スレンダーな感じで。
A:こっちのほうですか?それは、ボストンのジャズのクラブで、そこで私が出たときに撮った写真です。この彼は、ピーチシムズじゃないかな。こちらの方はボストンにいたときに一緒だったアルトサクソフォンを吹く方で、その後この人はベーシストになったと思います。今、シカゴにいる。
Q:ところで、岡崎の内田先生の病院につくられたドクターズ・スタジオに何度が行かれたそうですが、そのときの印象はどうでしたか。
A:何回もうかがいました。アップライトピアノがあって、私があんなものって言ったら、グランドをお入れになって。
それから、亡くなられた奥様からいつもおみやげに八丁味噌をいただきました。私、すごくありがたくて。今、お豆の八丁味噌って売っていないみたいですから。お豆のはすり鉢ですらなきゃいけないんです。そうやって普通のお味噌にするわけですよ。そうすると増えるわけ。最近はそういうのもなくなったみたいで。お店の方が少し賢くなったということですかね。
Q:ピアノを秋吉さんの一言でアップライトからフルコンサート型のピアノに変えたんですか?
A:先生はそうおっしゃっていましたけど。
Q:今は岐阜のとある病院にそのピアノがあるそうですね。
A:岐阜の病院に行って弾いたこともあります。先生のところへうかがうときは、泊めていただいたことも何度かありました。病院のドクターズ・スタジオでも弾きましたし。
Q:シビックセンターの資料室には、ドクターズ・スタジオの写真を原寸大に伸ばしたタペストリーを展示しています。先生がまんなかに座っていらっしゃいまして。
A:あのスタジオをお作りになったときに、録音もできるようにしていらっしゃった記憶がありますね。
Q:写真でしか見たことがないんですが、録音室からスタジオを撮った写真がありまして、こうなっていたんだろうと想像することができます。じつは岡崎市は平成5年に内田先生からジャズコレクションを寄贈していただきました。
A:すごいなあ、さすが先生。
Q:個人で1万枚を超えたレコードの数はすごいですよね。
その後、岡崎市はコレクションの活用事業をさまざまなかたちで展開しています。たとえば、小中学校では出前コンサートというのを行っておりまして、今年はバークリーの竹中真さんに来ていただきました。
A:ああ、いいですね。
Q:そういった事業のあり方に関しては、模索しているところもあります。何か秋吉さんからアドバイスをいただけないでしょうか。
A:私がアドバイスすることは何もないです。アメリカでは、小学校なんかでそういったことはずっと前からやっていますよね。日本ではまだ始めたばかりだと思いますけど、私としてはいいことだな、嬉しいなと思います。
Q:現場へ行くと、小学生はわいわいさわいで嬉しそうですし、中学生もけっこう楽しそうにかっこよく演奏しています。では、今の日本のジャズ・ミュージシャンに対して何かメッセージをいただけないでしょうか。こういうふうに頑張れというような。
A:結局、どういうことかっていうと、やる人間はやるし、やらない人間はやらないんですよ。日本の場合は、はっきり言っちゃうと、甘えることができる。そういう状況にあるから、ほんとうに本人次第。自分がもっと向上したいからっていうだけで、外から圧力がかかるわけじゃない。アメリカの場合は、上手くならないと仕事が入りません。そういう圧力がありますからね。そういう違いがあります。だから、結局やる人間はやるし、やらない人間はやらないので、私がアドバイスっていうのはできないですね。
Q:じつはこの本(『孤軍』〜秋吉敏子その人生と作品〜 全音楽譜出版社)を読ませていただいたんですが。
A:私、これ知らないんです。それは私が書いた本ではなく、みなさんが私に対することをお書きになった本らしいので。
Q:秋吉さんがまだ日本にいらっしゃる頃の話ですよね。外国人専用のコンサートにそっと入っていったとか、ミュージシャンに直接会いに行ったとか、すごい行動力だなあと思います。
A:そりゃあ、やっぱり聴きたいから。なんとかして聴こうと塀を乗り越えたりとか。
Q:普通の女の子が塀を乗り越えたんですか?
A:聴きたいから乗り越えるんで、それしか方法がないから。
Q:読んでいて、そんなにすんなりミュージシャンのところまで行けるものなのかなあと思っていたんですよ。塀を乗り越えたと聞いてなるほどと理解できました。
A:問題は自分がどれだけ知りたいかという熱心さだけですから、別に塀を乗り越えたくて乗り越えたわけではないので。そうしないと聴けないから。
Q:情熱ですね。最後におうかがいしますが、岡崎で印象深い出来事がありましたら、おしえてください。
A:岡崎っていうと、私の印象は内田先生っていうことになりますね。内田先生がいらっしゃるから来ることができました。引退なさってからは、岡崎にはあまり来る機会もないし。まあ、誰でも知っている徳川家康の生誕地、なんていうのは私には関係ないですし。だから岡崎って言ったら内田先生っていう、そんな感じですね。
Q:どうもありがとうございました。
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