内田修著『ジャズが若かったころ』
(1984年 晶文社)
1960年代、日本のジャズの青春ともいうべき時代のジャズをめぐるさまざまな出来事を追った交遊録。そこには日本のモダン・ジャズが確立されていく様子がいきいきと描かれています。その中の一節をご紹介します。
第03回
「オールスター患者クラブ」の仲間たち
(日野元彦編 II)
「銀巴里」から「ギャラリー8」へ。つまり「新世紀音楽研究所」の後半、ぼくは一台のテープレコーダーを寄付して、所員たちの成果を録音して送るように頼んだことは前にも書いた。その中に山下洋輔のバックでドラムを叩く元彦の記録が残っている。実は、これが、僕の耳に入った彼の最初の音なのだ。
日野元彦の生の音にじかに接したのは、そのテープを聴いてからおよそ三年後「ヤマハ・ジャズ・クラブ」第十一回の例回(六十五年十月五日)で、「稲垣次郎カルテット」のステージ。メンバーは佐藤允彦(p)寺川正興(b)、そして元彦のドラムだった。トコちゃん二十歳の時だ。先日十数年ぶりにその時のテープを一緒に聴いたら、「割合ちゃんと叩いているんで安心しました。ひょっとすると今よりうまかったんじゃないかな?」なんて冗談まじりに言ってたっけ。
それから間もなく、「稲垣次郎グループ」から兄皓正のグループに転じて、一躍トップ・ドラマーとして認められていったのは御承知の通りだが、張り切って出掛けた「ベルリン・ジャズ・フェスティバル」に出演中、ものすごい腰の痛みで、演奏も歩くこともできなくなってしまった。「椎間板ヘルニア」という「ぎっくり腰」のひどいので、ぼくの所に転がりこんできた元彦はいや応なしに手術の破目となる。全快、再起後の元彦が、以来最も頻繁に訪ねてくれるジャズメンの一人になったのは言わずもがなだろう。ちなみに、ぼくのスタジオにあるドラム・セットは、彼が退院祝いに置いていってくれたものなんだ。誰ですか、手術代がわりに取りあげたんじゃないのなんて言う人は。
先年久しぶりにニューヨークへ行った時、暫く前から修行に来ていたトコちゃんには、つきっきりでお世話になってしまった。女流ピアニスト、J.ブラッキーン・トリオのレギュラーで演奏するかたわら、貞夫の章でも出てきたぼくとの共通の友人、和田君の経営する、レストラン「三田」で誰よりも真面目にボーイとして働いていたトコちゃんの姿を見て、感心するのを通り越して胸を打たれる思いだった。よくやったねえ。だからあれ以来、人間的にも、ぐっと幅ができたような気がするよ。
そうそう、あれは「ヤマハ・ジャズ・クラブ」100回記念コンサートだった。なぜかドラムは日野元彦ただ一人。六人揃った日本の代表的サキソフォン奏者(渡辺貞夫、宮沢昭、西条孝之介、峰厚介、原田忠幸、森剣二。続編では植松孝夫も参加)によるオーケストラと、それぞれをフィーチュアしたセットのバックをつとめて延々数時間をやり抜いた。すごい根性だった。もっとも、あとで「もうふらふらで、先生に殺されちゃうかと思ったよ」なんてぼやいていたっけ。とは言いながら、打上げパーティでも、あきもせず叩いていたねえ。さすが、ニューヨーク仕込みは違うなあ。本当は、ぼくも少々うっかりしてたんだが、譜面に強くて(何しろ、あの佐藤允彦の疑った作品だものね)、何でもできるドラマーとして特に信頼しているんだから悪く思わんでくれたまえ。とは言っても、他にドラムがないみたいなやり方は失礼だから、二度とそんなことはしないつもりだよ。それにしても医者が、「殺されちゃう」なんて言葉を使われては具合の悪い話だけどねえ。
