
WHINGS / 鈴木良雄
待ち望んでいた"チンさん"の新作に寄せて・・・・・
(Ⅰ)ニューヨークで―――:
あれは一寸奇妙なコントラストの風景だった。もうすっかり夜も更けて、あたりは真暗な筈なのに、眼下には美しい照明にくっきり浮かび上った赤茶色のテニスコートが整然と並び、その先には突然、いかにもニューヨークらしい古ぼけた建物が、ごちゃごちゃとつらなっていた。もう少し目を上げるとハドソン河が、うすぼんやりと水面を反射し、夜空との間には、広々としたニュージャージーの低い山々が、不規則な境界線を引いていた。一年程前の夏久し振りにニューヨークを訪れた僕を、チンさんは、手を引く様に自分のアパートに誘ってくれたのだが、30階にある彼のきちんと整理された部屋の大きな窓を開けた時、目の前にひろがったあの光景はとても鮮やかな印象を焼きつけたのだ。
メキシコへの旅を終えたあと、「絶対ニューヨーク迄足を伸ばさなくては」と考えた理由は、一寸失敬な言い草だけれど、「本当に"健気に"生き抜いているなあ」と僕の目には映っている、懐しい日本のジャズメン連中と古い友人達に会いたいという気持からだった。
その一人、チンさんは西43丁目にあるレンガ色のモダンな高層アパートで、JALに働く美しい夫人と二人だけの落着いた生活を営んでいた。夜空にそそり立つ様なそのマンションはニューヨーク市の手で建てられ、秀れた才能を持つと認められたアーティストだけに開放されている理想的な環境で、その暮しぶりをちょっぴり心配していた僕をとても安心させた。
それに較べて前夜立ち寄ったプーさん(菊地雅章)のアパートが、いかにもロフトという名にふさわしい雰囲気だっただけにその微笑ましい位に対照的な住まいにびっくりさせられたということもあったのだけれど。何しろプーさんの部屋は、エレベーターを降りると廊下もなしにそのまゝ居室に続くという便利さがあるのは確かだが、いざ帰る段になると、そのエレベーターの扉を少しばかり開いて、先づもって乗るべき箱が目の前に来る様に手動で操作しなければならぬという時代もので、うっかりするとそのまゝ奈落の底に転落しかねないというすさまじさなのだ。「とても酒好きの僕には住めないよ」と笑ったものだが、そのくせ部屋の方は近代エレクトロニクスの粋を集めた器材の山で、まるで足の踏み場もないのが実に面白かった。
所で、ひとしきり夜景を讃嘆した僕にチンさんはリビングルームのじゅうたんの上に座る様すすめたあと、長身をもてあます程でもないのに少し腰をかがめる独特の仕草で、仕事で遅くなる奥さんを待ちかねる様に、手際よくビールやつまみを食卓に並べるのだったやがて宵の内から続いた宴がチンさんの部屋に移って一段と盛り上った頃、口ひげを立派にたくわえている割には一寸弱気っぽい、あのはにかみの表情を浮かべながら「これ聴いてくれる?」と一枚のLPをターンテーブルにのせた。それは「MATSURI」(CBSソニー25AP-1611)と題した渡米后初のリーダーLPで前年発売されたばかりのものだった。「勿論」とうなずくと、何だか安心した様だった。実際、そのLPを初めて聴いた時、「チンさんもやっとアメリカの生活になじんで自分の音が出せる様になったんだなあ」ととても嬉しくなった作品だった。それにしても、チンさんが堂々と自分の作品を聴かせようしているのを見て、僕は口にこそ出さなかったけれど「きっとチンさんに一番必要な自信めいたものが出て来たからに違いない」と何だか頼もしい気分にさせられたのだ。
現実に、「ニューヨークに住んでジャズの世界で生き残って行く」という事は、たとえ自分から選んだ道でありその上すばらしく刺戟的な方法であるのは間違いないにしても、想像以上の厳しさを伴うものだ。―――それは同じ時、まだニューヨークにとどまって、レストランでボーイとして働きながら立派にジャズの仕事でも認められていた日野元彦のキラキラ輝く様な生活態度を見た時の実感でもあった。
「ビル・ハードマンと仕事してるって聞いたけれど」。何時だったか深夜ピアノの田村翼とトランペット片手にぶらりと僕の家を訪ね、夜を徹して且っての親友クリクオード・ブラウンの想い出を語り、ブラウンゆかりのバラードを次々に吹いてくれた純朴そのもののビルの顔を思い浮かべながら聞いてみた。「春先まででやめたんですよ。本物のバップがやれたという意味ではとても良い体験だったしビルもすごくいい奴だったけど、何せ旅が多くてきついというせいもあって。それに、このあたりでじっくり腰を落着けて次の作品に備えたいという気持も強くってね。でも、やっぱり日本人なのかなあ。仕事が途切れると一寸焦っちゃうみたいな所もあって。それにここん所、ちゃんとした仕事で日本に帰ってないでせう?もう忘れられたんじゃないですか?」おや、あんなにちゃんとやっていても日本のこと気になるのかな?何んだかいじらしくなって、「チンさんを忘れる筈がないよ」。妙に力んで答えながら、時たま私用で日本に帰った時、必ず早稲田の「ジャズ研」仲間がやっている新宿のジャズ喫茶に立ち寄ってプレイして行くチンさんの律儀さを考えていた。「あわてずにいい作品作って、その仲間と演奏旅行に帰って来ると嬉しいね」。酔いにまかせて、人が良くって心優しいチンさんをえらそうに励ましてる自分が何だかおかしい様な気分だった。
やがて帰宅したすてきな奥さんと、二人連れ立ってタクシー迄送ってくれるのを眺めながら、僕はオヤジになった様なたまらない親しみを感じていた。
それから間もなくニューヨークを去る事になり、僕は世話になったプーさんとチンさんをお別れの食事に誘うことにした。選んだのは旅行者の僕にもなじみの、「グランド・セントラル・ステーション」地下の「オイスター・バー」。ここはいたって庶民的だが、おそらくニューヨークでも指折りの新鮮で旨い「シー・フッド」を食べさせるレストランだ。よく冷えた辛口の白ワインを傾けながら、日本の倍以上もでかい「生がき」を次々に平らげ、こぶし大の「ソフト・シエル・クラブ」(殻まで食べられる名物の蟹だ)を何匹も美味しそうに片づけるチンさんのたくましい食欲を見ながら、僕は去り難い思いの中で「この調子でもりもり頑張って欲しいなあ」と考えていた。
(Ⅱ)"WINGS"
あれから数ヶ月たった81年の4月、チンさんはひっそりという感じで日本の土を踏んだ。あれ以来じっくりと暖めて来た構想を引っさげて、新しいレコーディングに入るための最終的な打ち合せに訪れたのだ。
間もなく、プロデューサーはチンさんと学生時代からの友人で、渡辺貞夫グループ在籍中に残した作品でも制作にあたっていた、気心の知れた伊藤潔君(CBSソニーからあいミュージック)、そして発売はトリオ・レコードからと決定した。その伊藤君から連絡があったのは夏も近づいた頃だったろうか。
「デモ・テープも出来上り、曲順も略決ったのでニューヨーク迄録音に行って来ます。時間は充分とってありますから、先づレコーディングのメンバーで8月11、12日の2日間"セヴンス・アヴェニュー・サウス"に出演して、きめ細かく練り上げてからスタジオ入りする予定になってます。期待して頂いても良いと思いますよ」。
秋に入って間もなく、今度はトリオ・レコードの丸茂ディレクターから電話があった。
「全編非常に自由で大きな空間が感じられる上に、チンさんらしいヒューマニティに溢れた作品が出来上ったと思います。チンさんたっての希望ですのでライナーお願い出来ますか?」。「勿論。でもチンさんの人柄をちゃんと紹介出来る自信なんてないけどなあ」。
速達でテープが届いた時、セットするのがもどかしい程浮き立っていた。そして、最初の印象は、「うん、これは簡単に聴き流して欲しくない。じっくり聴き込んでもらえばきっと惚れ込んで頂ける作品になりそうだ」。
実際、いかにもチンさんらしく大向う受けする様な派手さもないし、プーさんみたいに衝撃的なサウンドとも違う。その上リーダーでありながら、ベース・ソロといえば最后の曲につゝましく添えられているだけだが、これが全く生の音で暖かいし、よく鳴っている。
それから暫くは、まるで周りにはチンさんの音楽しかない位に聴いたものだ。テーマはどれもとてもシンプルだけれども親しみ易く、美しい。いつの間にあんなきれいな曲書ける様になったんだろうねえ。
前回の「MATSURI」でもつき合っていたD・リーブマン、A・ラヴアーン、T・ハーレル、それに新加入のD・ゴットリーブの4人は最初からチンさんの構想に入っていて、結局この5人が「キイ・メンバー」となって、他のプレーヤー達を夫々推せんしたんだという。それも単に名の通っただけの人は避け、チンさんの音楽を充分理解した上で、いかに緊密な音空間を創り上げることが出来るかを主眼にした人選だという。
流石リーブマンのソプラノは鋭くエキサイティングだし、フルートの確かさにも驚いた。しかし他の人達のソロも、夫々簡潔にきまっていて、全く隙がない。つまり、リーダーの心くばりが隈々まで行き届いているのが聴き込む程に分って来る―――そんな気のする作品だったのだ。
聞く所によると、来年、つまり82年だけれど、意気投合したニューヨークの仲間達を引き連れたチンさんが、久し振りに日本の各地を演奏旅行しようというプランが進みつゝあるということだ。その時が来たら、「チンさんよかったね」と一言云ってやりたいなあ―――今はそんな気持でその日を待ち続けたい。
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