宮沢さんと「名古屋の仲間たち」そして「ソプラノ・サックス」と「中耳炎」
前作「マイ・ピッコロ」が思いがけず「日本ジャズ賞」を頂いてしまった時、あのレコードの制作にいくらか関わりを持って、後押しした様な気になっていた僕達、名古屋のジャズファンは、正直な所一様に「こいつは大変なことになってしまったぞ」と思ったものだ。
何しろ、宮沢さんに「やっぱりジャズプレイヤーとして思う存分吹いてもらいたいなあ」などとけしかけてジャズの世界に引き戻してしまった元凶は、僕自身だし、まわりの友人達も同じ様な責任感をひしひしと感じて「こいつは後には引けないぞ」とばかり身ぶるいする様な気分になったのだった。
一方、本人は、まことに思い切りがいい。長年住みなれた東京の家を、手離したと思ったら、いち早く相模原に居を移して、奥さん共々「お茶屋さん」をオープンし、「さあこれで何の迷いもなくジャズがやれるぞ」と張切っている。東京を離れたいと聞いた時、僕達は手分けして家探しやら職探しをして、真剣に、「名古屋に来てもらおうや」と考えていただけに、その見事な生活設計ぶりに、ちょっぴりあっけにとられた気分だった。その上何時の間にやら、大事な楽器を二束三文で売っぱらって、「なーに、ジャズやるなら、テナーとフルート、ソプラノがあれば大丈夫。なまじ色々置いとくと又スタジオの仕事が舞い込んで断り切れなくなるとまずいからなあ」。感心するより、あきれるくらい、さばさばしたもんだ。
そうなって、ますます追いつめられたのは我々だ。何となく寄り集まっては話し合う。「宮沢さん、あゝ言ってるけど本当にジャズで生活出来るんかしら。自分がリーダーでグループ作ったら、ひょっとしたら、いや、絶対引く手あまたなんだろうけどね。第一、売り込みしない人だろう?多分誰かが仕事作って持ってくるのを、のんびり待ってるんじゃないのかなあ」。
やがて、ジャズ・クラブのオーナーが、考え抜いた末の様に遠慮がちに切り出した。「もし、宮沢さんさえ良かったら、毎月何日間か、続けて出て頂くというのはどうですか。もっとも、本当なら東京から、サイドの人も来て頂くのが理想なんだけど、一寸拂い切れない感じだし、当分はハウス・トリオでということでどうでせう?」。「うん。そいつはいいよ。それにしようよ。最低の生活費保証出来るくらい出してあげるよ」。何だか、全員肩の荷が、いくらか軽くなったようだった。
それから一年あまり、宮沢さんの出演する下旬の何日間かは例外なくぎっしり満員になる。その上最初は、職人気質の宮沢さんを悩ませて、「どうも思い切り吹けないなあ」とこぼしていたセミプロ程度のハウストリオも、頑張り抜いて何時しか、立派なプロの腕に成長するという嬉しいおまけがついたりして――。
やがて市内は勿論、近郊のジャズ喫茶からも、「前後一日でもウチに出て頂けませんか」。何時の間にやら「宮沢さんは、僕らのミュージシャンだ」という誇りにも似た気持が、皆の心に滲み込んで行ったのも当然の成り行きだった。