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SPEED&SPACE/ 富樫雅彦

1)1975年の日本のジャズ・シーンは富樫雅彦を核としていた。―――:

 この文章を書き出したのは1975年も押しつまった頃だった。その暫く前、僕はスイング・ジャーナル誌別冊「モダンジャズ読本'76」に「'75日本ジャズ界の動向と成果」と題した文を書き上げた。そこでは今年一年の様々な動きを回顧し、分析したのだったが、その主眼は富樫雅彦の活動状況をあらためて息詰まる思いで見つめ直したのも同様だったと言っても良い。つまりそれ程、'75年に於ける富樫の成果は、際立ったものがあったのだ。
 前年、富樫は長い音楽生活を通じての信頼し得る友―――それは、渡辺貞夫、佐藤允彦、菊池雅章だったが―――を対話の相手として「ソング・フォー・マイセルフ」を発表し「日本ジャズ賞」を得たのだがこれは同じ年、チャンスを得て共演したドン・チェリーとの邂后がもたらした輝やかしい実りの一つだった。こうして彼は一人の天才的リズム奏者から、次第により広い意味での音楽家としての着実な歩みを踏み出したというのが一般的な認識であった。
 事実明けて'75年、この年を代表する傑作、「スピリチュアル・ネイチャー」を生み出した「富樫雅彦の世界」と題するコンサートは、僕達にかつてない新鮮な体験をもたらした感動的なイベントとして記憶に残るものだった。続いて孤高のソプラノ奏者スティーブ・レイシイとの帯同公演と「ストークス」と呼ぶ作品を発表、更に夏には自己のグループを率いての東北、北海道のコンサート・ツアー。休む間もなく9月には「風の遺した物語」と題するトーン・ポエムを発表、加えて同名のリサイタルも開いて、詩的な幻想を現実化してくれた。この間を縫う様にニューヨークのサウンドを運んで来た菊池雅章とのデュオ、更に驚くべき事には、'76年発表予定の「パーカッションによるソロ・アルバム」2枚組の吹込み完了等、限界にいどむかの様な集中的な仕事ぶりを示して、ただでさえ病弱なその身体を気づかわねばならぬ程の活動ぶりを見せたのだった。
 こうした足跡を、今こゝに並べあげただけでも'75年に於ける富樫の存在が如何に重要であったかを容易に理解して頂けるに違いない。
 とは言え、富樫の姿勢はそうした成果には、まるで無関心の様に淡々としたものだった。そこには何のてらいも、気負いもなく自己の探し求める音の世界を一つ一つ、ごく自然にあたかもキャンバス上の絵具の様に残して行ったに過ぎない様に見えた。そして、それは富樫自身が「風の遺した物語」というタイトルを象徴しているかの様にすら見えたのだった。

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