(1)モントルーへ
1970年6月17日朝、折からジュネーブは雷をともなう相憎の豪雨だった。ワーゲンのワイパーをきしませながら、ハイウエイを東に走ると、30分後、昔乍らの細い旧道に入る。ここから更に右手にレマン湖を望みながら、曲りくねった道を駆け抜けると間もなく、静かなたたずまいのモントルーに到着する。普段はひっそりとした高級保養地なのだが、シーズンの始まる6月半ばには、この街全体が何となく若返って、活気をおびた感じに一変する。言う迄もなく、この夜から5日間、町のバックアップによるヨーロッパ最高のジャズ・フェスティバルがくり展げられるからだ。6月初め日本を離れた渡辺貞夫とそのグループの一行は、約2週間に及ぶ東欧諸国でのフェスティバルやTV出演を終え、その好評に気を良くし、自信をもってモントルーに入っていった。フェスティバル・オープンの夕刻が近づくにつれ、心配された天候も次第に晴れ間を見せはじめ、日差しと共に、美しいレマン湖が対岸迄見渡せる様になるのと平行して厚い雲間から白銀に輝くアルプスの尖った峰峰が少しづつその姿を現わしかけていた。
さて話を再び元に戻して、このシャンソンを専門とする店とジャズとのめぐり合いに触れなければなるまい。1960年に入った頃の東京は、レコードを主体とするジャズ喫茶は沢山あったのだが、定期的に生演奏を聴かせる所は、皆無といってよかった。僅かに有楽町の「フジヤ・ミュージックサロン」、銀座の「ろーく」「日航サロン」等が不定期のセッションを公開していたに過ぎず、当時盛んに来日したアメリカミュージシャンのアフターアワーズのセッションは、主として外人向けの高級クラブで行はれる事が多かったために、一部の人しか接する事が出来ず、ジャズを本当に愛している若い層には殆んど縁が無かったのである。この辺の事情については、先のTBM−6の金井英人“Q”でもいささか触れたので重複を避けるが、何れにしても、こうした悲観的な状況をミュージシャン自身の手で、打破しようとして立ち上がったのが、金井英人――高柳昌行――富樫雅彦――菊池雅章を軸として、結成された「ジャズ・アカデミイ」の人達だったのである。1961年の事であった。彼等は、一旦は、東京に絶望して、横浜、名古屋で連続的に自主公演(ジャズ・セミナーと称した)を持って、意欲作を次々と大衆の前に発表して行ったが、それと並行して、一方では、何とか、やはり本来ジャズの中心であるべき東京にも拠点としての場を持つべく、高柳を先頭に体当たりで交渉し続けていた。こうした熱意に打たれて、好意的に場所を提供してくれたのが、本来ジャズとは関わりのないシャンソンの喫茶の「銀巴里」であった。そして以後1965年「ジャズ・アカデミイ」の後身「新世紀音楽研究所」の所員ドラムの宮川洋一が自らの手で開いた「ギャラリー8」オープン迄、「ミントンハウスのセッション」にも匹敵する、貴重な勉強の場であり、又フアンとの接触点でもあった「銀巴里金曜午後のセッション−フライデイ・ジャズコーナー」を地道に続けて行ったのである。