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幻の銀巴里セッション
――1963年6月26日――
をしのんで
内田 修

(1)“銀巴里”

 ジャズを聴き出して10年以上経っておられる方達にとっては、「銀巴里」或いは「ギャラリィ8」の名前は大変懐しいものに違いない。然し、最近の若いジャズファンにとっては、こうした名前も既に過去の遠いものか、それ共全く無縁の存在となっていよう。それも無理からぬ事である。
 所で、「銀巴里」は元来“シャンソン喫茶”として古くから知られ、その方面では非常に重要な存在である事は今も変わらない。

 それがどうしてジャズとのつながりが出来たのか、そんな事を先ず少しばかりお話してみよう。
 その前に、この店のたたずまいを御紹介して見ると、銀座通りを尾張町の交差点から新橋方向に歩いていくと、御承知の様に左手にヤマハの銀座店がある。それを通り越して、最初の角を左に折れると、うっかりすると見過してしまう程の小さな入口を持った店があり、そこに遠慮勝ちに「銀巴里」と書かれたネオンを、丁度頭の上あたりに見つける事が出来る。その辺りの地理を御存知の方なら、銀座通りをへだてて、現在の「ジャンク」と反対側にある事に気付かれよう。これが古い歴史を持ち、シャンソンのメッカとして、その道のファンに愛されて来た「銀巴里」であり、日本の一流シャンソン歌手の殆んどは、ここから育った筈だ。さて入口を入って、螺旋状の階段を地下に降りて行くと壁面に貼られたシャンソン歌手のポートレートが否応なしに目に入って来る。そして地下一階に降り立つと、薄暗い中に意外な広さを持った店内が見渡せるが、正面にステージ、反対側にカウンターがしつらえてあり、一寸くたびれかけた椅子席がぎっしりと並べられていて、収容人数はおよそ、100人程であろうか。――そんな所が、私の記憶に残る1963年頃の懐かしい銀巴里のイメージなのだか、こんな描写で、足を踏み入れた事のない方々に、その様子が想像して頂けたであろうか。

 さて話を再び元に戻して、このシャンソンを専門とする店とジャズとのめぐり合いに触れなければなるまい。1960年に入った頃の東京は、レコードを主体とするジャズ喫茶は沢山あったのだが、定期的に生演奏を聴かせる所は、皆無といってよかった。僅かに有楽町の「フジヤ・ミュージックサロン」、銀座の「ろーく」「日航サロン」等が不定期のセッションを公開していたに過ぎず、当時盛んに来日したアメリカミュージシャンのアフターアワーズのセッションは、主として外人向けの高級クラブで行はれる事が多かったために、一部の人しか接する事が出来ず、ジャズを本当に愛している若い層には殆んど縁が無かったのである。この辺の事情については、先のTBM−6の金井英人“Q”でもいささか触れたので重複を避けるが、何れにしても、こうした悲観的な状況をミュージシャン自身の手で、打破しようとして立ち上がったのが、金井英人――高柳昌行――富樫雅彦――菊池雅章を軸として、結成された「ジャズ・アカデミイ」の人達だったのである。1961年の事であった。彼等は、一旦は、東京に絶望して、横浜、名古屋で連続的に自主公演(ジャズ・セミナーと称した)を持って、意欲作を次々と大衆の前に発表して行ったが、それと並行して、一方では、何とか、やはり本来ジャズの中心であるべき東京にも拠点としての場を持つべく、高柳を先頭に体当たりで交渉し続けていた。こうした熱意に打たれて、好意的に場所を提供してくれたのが、本来ジャズとは関わりのないシャンソンの喫茶の「銀巴里」であった。そして以後1965年「ジャズ・アカデミイ」の後身「新世紀音楽研究所」の所員ドラムの宮川洋一が自らの手で開いた「ギャラリー8」オープン迄、「ミントンハウスのセッション」にも匹敵する、貴重な勉強の場であり、又フアンとの接触点でもあった「銀巴里金曜午後のセッション−フライデイ・ジャズコーナー」を地道に続けて行ったのである。

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