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写真上:守安祥太郎(講談社『そして、風が走り抜けて行った』より)
写真中:講談社『そして、風が走り抜けて行った』植田紗加栄著
写真下:守安祥太郎が唯一残したアルバム「THE HISTORIC MOCAMBO SESSION '54」
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守安祥太郎(もりやす しょうたろう)
[ Piano Forte ]
1924年東京生まれ。大学卒業後、会社勤めをしているうちにジャズに興味を持つ。1949年(昭和24)三原橋「新興キャバレー」のコンボに入り、ジャズの世界に足を踏み入れる。当時の最先端のジャズ〈ビバップ〉に傾斜し、1952,3 年頃には第一線のジャズ・プレイヤーとして認められる。
1953年、宮沢昭(ts)、平岡昭二(ds)らと上田剛(b)のフォー・サウンズに参加。幻のモカンボ・セッション(1954年)の後は、沢田駿吾(g)率いるダブル・ビーツに参加。
ピアノの下にもぐり込んで腕を伸ばしたり、後ろ向きの姿でピアノを弾くという演奏は当時非常に話題となった。ステージ合間の休憩時間までピアノを弾き続けたという伝説の天才ピアニスト。1955年9月28日、東京の目黒駅で電車に飛び込み自殺。
ぼくが守安祥太郎とはじめて出会ったのは、1949年(昭和24)。守安祥太郎が31才でこの世を去る6年前で、場所は有楽町駅前のジャズ喫茶「コンボ」でした。その店はいつも満員で、新しいお客がくると誰かが席を立たなければいけなかったけれど、銀座への便がいいから守安をはじめ秋吉敏子、ギターの高柳昌行、若き渡辺貞夫、宮沢昭などのジャズメン、芸能人たちなどのたまり場になっていた。
当時、医学生のぼくは、新進ジャズ評論家として売り出していた、いソノてルヲと連絡を取り合い、初めて「コンボ」で待ち合わせをし、ふたりでアメリカや日本のジャズメンについて話し込んでいた。その時、ちょうど守安さんがいて、いソノてルヲが「守安さん、この人学生さんなんだけど、ものすごくジャズが好きなんですよ」と気軽に紹介をしてくれた。その後、いソノてルオは席を外し、残されたぼくは守安さん初対面なのにもかかわらず、ジャズの話をいっぱいして嗜好がぴったり合うことがわかった。そしてうれしいことに守安さんから「仕事に行くからぼくの演奏を聴いてくれませんか」お誘いをうけた。
ぼくが守安さんに連れていかれたのは、銀座七丁目の「クラブ貿易会館」という実業界の大物が集まる超高級ナイトクラブで、守安さんは学生だったぼくの懐具合を心配してくれて、「横に来てお聴きなさいよ」と言ってくれた。でもフロア−テーブルには岡崎の遊び場とは比較にならない(失礼)すこぶる美人が5、6人いて、演奏もフロアで聴きたかったので思わず「あっちの席のがいいです」と自分で席をとった。
そこでの出演は「上田剛とフォー・サウンズ」だった。はじめて守安さんの演奏を聴いたわけだが、とにかくすごかった。守安さんは見た目の育ちがよく、品がいい銀行マンでインテリ風だったが、ピアノは火花が散るよう演奏だった。まさしくビーバップそのものだった。イントロが天才的にすごかったし、それに合わせて宮沢昭(ts)がこのコードでこの曲だろうと入ってくる。こんなプレイは、はじめてだったし驚きだった。とにかくすごかった。それも銀座の高級クラブで聴けるなんて…。
その後、守安さんの演奏を何度も聴いたが、そのたびに感激した。とにかくものまねではないオリジナリティがあった。その時点で完成されていたとはっきり言える。守安さんが今生きていたらどうなっているかなんて想像もつかない。それほどすごかった。
最後に守安さんの演奏を聴いたのは、彼が亡くなる直前の「日比谷イン」であった。
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