ヤマハジャズクラブにて。


宮沢昭「マイ・ピッコロ」。
1981年「日本ジャズ賞」を受賞。













「葵博 岡崎'87」ジャズファミリー・イン・オカザキでの宮沢昭。


宮沢昭「山女魚(やまめ)」。ジャケットの写真は釣りをする本人。宮沢昭の釣り好きがうかがえる。


宮沢 昭(みやざわ あきら)
[ Tenor Sax ]
1927年長野県松本市生まれ。日本のモダンジャズ胎動期を担ったテナーサックス奏者。
陸軍戸山学校軍楽隊でクラリネットを吹く。復員後、テナーサックスに転向し、米軍クラブに出演するバンドやコンボなどをまわった。守安祥太郎と名盤「幻のモカンボセッション」を残し、その後秋吉敏子のコージー・カルテットでは、渡辺貞夫とフロントを担当する。
モダンジャズのリーダー的存在として注目され、1960年にはピアニスト佐藤允彦を発掘した。1970年代はコンサートの表舞台から一時退くが、愛犬を偲んで吹き込んだ「マイ・ピッコロ」(1981年)や「ラウンド・ミッドナイト」(1985年)などで日本ジャズ賞をうけ、「昭和のビッグテナー」と評価された。2000年7月6日死去。

 宮沢さん。ぼくがこうして「さんづけ」で呼ぶのは彼が少しばかり、ぼくより早く生まれているからだ。このコーナーで守安祥太郎を紹介したが、ぼくの気持ちのなかでは守安と宮沢さんはペアとなっている。守安を語れば宮沢が登場し、宮沢と言えば守安というほど強烈なプレイを想い出す。もちろん人間的にもすばらしい二人だった。

 最初の出会いは、守安さんに連れて行かれた銀座七丁目の「クラブ貿易会館」という実業界の大物が集まる超高級ナイトクラブだった。そこで「上田剛とフォー・サウンズ」のメンバーとしてテナーサックスをプレイしていたのが宮沢さんであった。このグループの演奏はまさに伝説的なすごさで、なかでも果てしなく続いた守安さんと宮沢さんのチェイスは、今想い起こしても身ぶるいのするような感動だった。

 その後、守安さんが悲劇的な鉄道自殺で人生幕を閉じてしまってから、宮沢さんはショックでジャズシーンから姿を消してしまったが、「ヤマハ・ジャズクラブ」の第1回(1964年)に出演してもらおうと消息を求め、探しあてたのは東京神田の「アルサロ」だった。さっそく出かけてみたものの、テナーは聴こえるけど姿は見えず、ステージの前には半透明のカーテンがぐるりとめぐらされていた。「これが俺の希望なんだ、お客の顔を見たくないんだよ」と言い、いかにも宮沢さんらしいと思った。豪放でありながら極めてデリケートであり、しかし猛烈なパワーを秘め、やさしすぎるくらいやさしい人だった。その時のピアニストこそ、以後宮沢さんのジャズ史に残る傑作に欠くことのできない存在となった佐藤允彦(トーサ)であり、トーサを宮沢さんは「守安の再来」と目を細めてかわいがっていた。そして宮沢さんとトーサは、ぼくにとっては忘れられない第1回「ヤマハ・ジャズクラブ」の出演者となったのだ。

 しかし、それから宮沢さんはまたしても雲隠れ…。「ジャズでは食えないから」と、その間スタジオ・ミュージシャンや越路吹雪の伴奏をして、ジャズと距離を置いていた時期があった。数年後、ベースの稲葉国光が宮沢さんの体調不良を伝えてくれて、さっそく岡崎に呼び寄せ、見違えるほどやせてしまった宮沢さんを診ると、予想どおりの胆石だった。怖がりの宮沢さんには有無を言わさず手術を行った。

 手術後1ヶ月でステーキやうなぎも食べられるようになり、わが家の「ドクターズ・スタジオ」でこわごわ宮沢さんは練習を始めた。そして2ヶ月ほどで元の豪快なサウンドが鳴り出したのを見て、稲葉国光、佐藤允彦らの仲間たちがスタジオで再起を祝う「全快記念コンサート」を行った。そうした宮沢さんの心を打つ演奏を聴くにつれ、もう一度ジャズの第一線に戻ってほしいと思う仲間たちが集まり、ケガで岡崎の病院に入院された奥さんからも「好きなジャズをやってほしい」と言われ、それに後押しされるかたちで宮沢さんもスタジオの仕事をきっぱりと辞め、住み慣れた家と土地を処分してしまった。

 これでは、ぼくもうかうかしておれないと思い、スタッフ一同総力を挙げてジャズ評論家の児山紀芳さんのプロディ−スにより、「ヤマハ・ジャズクラブ」の第98回(1981年)のライブ・レコーディングが『マイ・ピッコロ』と題し発売された。このアルバムは予想以上の反響を呼び、その年の「日本ジャズ賞」の栄誉に輝いてしまった。

 その後も宮沢さんは岡崎に何度も足を運び、ほんとに素晴らしい演奏を岡崎にたくさん残したし、ぼくも楽しい時を一緒に過ごした。そうそう知らない人も多いと思うのだが、宮沢さんは大の釣り好きで特に渓流釣りの名人でアユ釣りも好きだった。冗談でジャズよりも釣りが好きだと言われていたこともあった。ある時、ぼくが岡崎の近くにある額田カントリーというゴルフ場に行くと言うと、一緒に連れて行ってくれと言うので車に乗せていった。釣竿を持った宮沢さんが「ここでいいです」と言ったので、乙川の上流で彼を降ろした。宮沢さんは川を見る目があるんで、「この川には雨魚(アマゴ)」がいると言った。そして地元の人はいないと言った。そして彼は見事に雨魚を釣り上げ、その夜二人で魚を箸で一緒に突っつきあったこともあった。また和歌山ではジャズ・ミュージシャンよりも釣名人で名が通っていて、ある時コンサートでテナーを吹き「あの人はジャズもやる」と驚かれたくらいだった。

 いずれにしても、その後の宮沢さんの活躍と人となりを見るにつけ、ぼくらの仲間たちは例外なく「ひとりのジャズ・ミュージシャンとの心の底からの交流」から得られたとてつもない満足感で胸がいっぱいとなり、何とも心暖まる気分に浸ることができたのだ…。


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