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中嶋悟(なかじまさとる)
元F1ドライバー。「NAKAJIMAレーシング」総監督
 ドクター・ジャズこと内田修氏は、ジャズを愛する傍ら、1965〜67年までの3年間、アマチュアながら鈴鹿サーキットの耐久レースなど多数の自動車レースに参戦。入賞経験もあり、知る人ぞ知るレーシング・ドライバーという一面を持っています。
 一方、中嶋悟氏は、岡崎が生んだ日本人初のF1にフルエントリーしたレーシング・ドライバー。(1987〜1991年の5年間にわたりフルエントリー:入賞10回)現在もフォーミュラ・ニッポンをはじめ、世界を視野に入れた活躍をされている「NAKAJIMAレーシング」の総監督でもあります。
 「岡崎」と「自動車レース」──そんな共通項をもったドクター・ジャズと中嶋悟氏に、レースについて、ジャズについて、対談をしていただきました。

※F1[Formula1]= FIA(国際自動車連盟)が開催する4輪、単座席のフォーミュラ・マシンによるレースの頂点。世界各国で年間十数戦開催され、日本では、鈴鹿サーキットで最終戦が開催されている。

(内田修氏:U)(中嶋悟氏N


連尺通の「保名(やすな)」って知ってる? 籠田公園のところの小料理屋さん。行ったことあるんじゃないかな? おばさんがひとりでやっているお店で、よくあなたの話が出るから。

元中日ドラゴンズの木俣さんに連れていってもらったことがあると思います。

僕は一人の時は、毎晩のようにあそこで晩ご飯食べていたから。

そういえば、先生の病院からも近いですよね


アマチュアながら鈴鹿で3分を切ったレーシング・ドライバー

そうそう…。今日はわざわざ日本が世界に誇る元F1ドライバーにきていただいたんで、レースの話をしないといけない。一応僕も短い間だったんだけど、耐久レースを中心に車に乗っていました。

そういえば、僕が10代の頃、先生の病院の近くのガソリンスタンドでアルバイトしていた時、先生の家の前を通るとポルシェとか置いてあって「すごいなあ」とよく車を眺めていました。ところで、先生はいつ頃、レースで活躍していたんですか?

1965〜67年までの3年間、走っていたよ。

自分がまだ8才の頃ですね。生まれてちょっとの頃だ。どんな車に乗っていたんですか?

最初はポルシェの356SCに乗っていたんだけど、ポルシェってぶつけたりするとお金がかかるじゃない。その上、リアエンジンでコーナリングが難しい。それで操縦性の良いスカイラインに替えたの。ウェーバーの三連キャブレターをつけて、フルチューニングしたレース仕様の車に。だけどちょうど一年くらいたって、こんなにお金がかかっちゃうと無理かなと思ったら、当時の日産プリンスのチームリーダー達(横山達、田中健次郎両氏)が僕の走りを見ていたみたいで「セミファクトリーになりませんか」と言って下さった。嬉しかったですね。それで日産プリンスから提供された「スカイライン2000GTR」の特別仕様に乗ることになったんですよ。

へぇー、そうなんですか。すごいですね。それで、先生はどんな種類のレースに出場されていたんですか?


鈴鹿パドックでのDr.Jazz(左)


僕は耐久レースが得意でした。耐久レースのありがたいところは、周回を重ねるうちに、次第にリタイアする車が増えてくるんですね。そうすると、知らぬ間に順位が上がっていくんですよ。
ところで当時、鈴鹿で1周3分を切るのがドライバーのひとつの目標だった。その3分を最初に切ったのが日産の北野元選手。アマチュアでは僕は早い時期に3分を切ったんですね。それで、日産プリンスが目をつけてくれたんだと思う。
その後のお話だけど、いちど、メインスタンドからも見える真正面のS字カーブで勢いあまって車が横倒しになったことがあって、その時は日産のドライバー達が自分のレースを止めて、僕を助けにきた。だから「大丈夫だ!レースに戻ってくれ」って格好つけて言ったっけなあ。
ともかく、今考えれば、当時は、細谷四方洋、田村三夫、福沢幸雄、北野元、高橋国光、鈴木誠一、滝進太郎、高野光正、朝岡重輝……、すごい皆さんと一緒に走っていたもんだと自分でも感心してしまいますね。

シビックセンターには、先生の1967年の鈴鹿耐久レース2位の表彰状が展示してあるって聞いてますよ。

いやあ、お恥ずかしい。3年間ずっとやっていたから、「年間最多出場」の表彰状をもらったおぼえもあります。

先生が持参された写真を見ればわかりますけど、安全防護柵が全然ないですね。今では二重三重の防護柵があるから、結構丈夫なんですけど。それに自分のキャリアのうち半分くらいがアルミのモノコックボディだから、ぶつかると潰れてたんですけど、それがF1に出場する頃には、カーボンに改良されて安全性が格段に上がったんです。昔は本当にぶつかる寸前までどっちの足に逃げようかなって、思うことがありましたね。


Dr.Jazzとスカイライン2000GTR
でもやっぱり医者が本業だし、まわりが「危ないですからやめて下さい」と言ってさかんに心配してくれたの。それで日産プリンスチームに辞めるって申し出たら、「車を差し上げます」って言ってくれた。それを知った後輩の若いドライバーが「今度僕のレースに貸してくれませんか」と言うんで「どうぞ」と答えたんだ。僕の腕がいいんじゃなくて、車がいいと思い込んでいたみたい。でも折角の彼も、いい成績は残さなかったなあ。
その後、日産プリンスから「もう一度で良いからレースに出てほしい」と言われたので、一回だけ出場したんだけど、以前は一度も怖いなんて思ったことはなかったのに、辞めると決めてから走ったら「あれ?以前はノーブレーキで走っていたんだけれどなあ・・・」と思った。もちろんタイムも上がらなくて。そしたら二度と声がかからなくなって。でも結果的には良かったと思っています。

そういえば、先生のことは阿川泰子さんから聞いていました。仕事が一緒の時に「中嶋さん、岡崎だよね。中嶋さんのお家って内田先生のところから近いの?」って言うから、「いやーせまい街だからね。近いも遠いもないよ」って。そうしたら、阿川さんが「内田先生にはすごくお世話になっていて…。またお会いすることがあれば、よろしくお伝えください」って言っていました。

そうなの。阿川さんがまだメジャーになってない頃は、よく僕のところへ泊まりに来たんですよ。当時はジーパン姿でお母さんと一緒に来たこともあった。今でもそうだけど、とってもかわいらしい人でしたね。ついこの間も名古屋のブルーノートに出演するって聞いてたから、お会いしましたよ。


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